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阪神大震災から7年

昨日で阪神大震災から7年が経過した。

今でも、あの日のことは鮮明に覚えている。私は当時、芦屋に住んでいた。
高層マンションの23階。半端な揺れ方じゃなかった。我が家では、娘が寝ていた二段ベッドと、
L字の角に設置してあった冷蔵庫以外のすべての家具が転倒した。

まじで、「死ぬかも知れない」と覚悟をしたのは、あの日の朝だった。
最初は、あまりの衝撃に、上か下の家がガス爆発でも起こしたのか…と瞬時に思った。
その後の激震の中、「これは地震だ!」と分った時に、高層マンションがボキっと折れてしまうイメージが頭の中にあった。

地震の直後の、液状化したマンション周辺。
世が明けて、飲み物を探して、家族で歩いた芦屋の町並みはまるで、空爆を受けた都市のようだった。

絶望を通り越して、何も考えられない状態で、家族みんなで、手をつないで歩いた。
生きていることを、本当に感謝したのは、あの経験からだった。

私にとって、阪神大震災は、現在の仕事にたどり着くための大きな転機でもあった。
それまで、DTPの仕事をフリーで行うために自宅に引いたISDN回線は、
震災の後は、インターネットに接続するためのものになった。
フォトショッパーの私が、高解像度の画像をハンドリングしていたコンピュータは、
72dpiのGIFを作るためのマシンになってしまった。

震災でクライアントの多くが倒産した。フリーのデザイナーにとって、これほど痛いことはない。
もうボランティアなんてしている場合じゃないので、関西DTP協会の会長を辞任させてもらった。
ボランティアに助けて欲しいのは、私自身だったから。

しかし、食料をはじめとするボランティアには、助けられたが
震災で失った仕事を取り戻すのは、大変だった。
自宅のマンションから見える、転倒した阪神高速道路を見ながら、思ったのは
ネットワークの整備だった。高速道路の工事と同時に、光ファイバーを被災地に配備すれば、
ネットワーク経由で仕事が流通するかもしれないと思った。本気でそう思って、企画を考えた。

その企画が巡り巡って、通産省に届けられた。
そして、 復興支援事業として、その年の秋にデジタルクリエイト工房が設置された。

私は、そこに入居しHTMLを覚え、ホームページを作った。仕事がなくて、他にすることがないから。
そのホームページ作りがいつのまにか仕事になった。

当時は、ホームページのデザインで、メシを食うということは、考えられないことだった。
当時、DTPでメシを食っていたデザイナーは、私がWebデザインに専念すると言うと、
「地震でアタマがおかしくなった」 とか、「フリーは気楽でいいね」 とか、「ホームページデザインなんてビジネスにならないよ」
と笑った。こういうことは、当の本人はしっかり覚えているものである。

震災の翌年の春に、G-TOOLというサービスを開始した時も、同じように笑われた。
「インターネットで素材を無料で配布するなんて、自分で自分の首を締めるようなものだ」 …と。

さらにその翌年、マクロメディアの公開したFireworksのパブリックベータをダウンロードして
腰を抜かした。バージョン1から使い慣れ親しんだ、Photoshopと分かれる決心をして
世界で一番早いFireworksの解説ページを作った。
多くのデザイナーは、こんな中途半端なソフトは使えないと笑った。

阪神大震災から7年。色々な状況がめまぐるしく変わった…とつくづく思う。
私はいつの時代でも笑われ者だったなあ…と改めて昔を振り返って思う。
そして、こんどはFIRECRACKERでまた、笑いものになるのだろうか?

阪神大震災から7年。
自宅のマンションから、倒壊した阪神高速道路を見ながら、
日本でも、多くの人間がインターネットに接続される時代になったら、もっと世の中は良くなるだろう…と思った。
多くの人が、情報を交換することができる。多くの人が助け合うこともできる…と。

しかし、実際はどうだろう?確かにインターネットによって、多くの人がつながったことは事実だ。
でも、良いことばかりじゃない。光もあるけど影の部分も多いよね。

だけど、私は、あの時の気持ちを忘れないようにしようと思っている。
だからこれからも、多くの情報を公開していこうと思っている。
 

  

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